アインシュタインの有名な言葉に
「学校で学んだことを全て忘れた時に残っているものが教育」というのがあります。
まさに教育の本質をついた名言ですね。
今回は「教育」を「言葉(言霊)」に置き変えて話していきたいと思います。
仮題としては
「これまで生きてきて感動した言葉を全て忘れた時に残っているものが言霊」となりましょうか。
少々大袈裟な題ですが、実はわたしが20年以上前に知った神父さんのある素晴らしい言葉を今回紹介したいと思います。
元は作家・ジャーナリストの落合信彦さん(息子さんは落合陽一氏)がこれまでの半生で感動した映画を一冊の本にまとめた中に紹介されていたことで知りましたが、当時聞かされたとき私は大いに感動した思い出があります。
「レ・ミゼラブル」から神父さんの言葉
この言葉がでてくる映画は、ビクトル・ユゴー著の「レ・ミゼラブル」。
あまりにも有名なのでご存知かと思います。
これまでに「レ・ミゼラブル」は、何回も映画化されていて、
特に1957年にフランスの名優:ジャン・ギャバンが主演した作品が有名ですが、
今回その素晴らしい言葉がでてくるのはその作品ではなく
50年ほど前にフランスのテレビ局が作成したドラマ仕立ての「レ・ミゼラブル」によるものです。
簡単に内容を言えば、主人公の元犯罪者ジャン・ヴァルジャンが町の神父さんとの出会いにより善良な市民として生きることを決意し市長にまで上りつめる話ですね。
落合さんが紹介していた本を今回探したのですがどうしても見つからないので当時の記憶を辿って話していきます。
あらすじ
あらすじからいきますと、
貧しい少女のためにパンの欠片を盗んだ罪で10年以上投獄された主人公のジャン・ヴァルジャン。
刑期を終えある程度の貯えを持ってこれから真面目に生活していこうと決心します。
しかし、元犯罪者ということで周りの目は冷たく仕事にも就くことができない。
やがて貯えが無くなり路頭に迷ったあげく考え、そして飛び込んだのが町の教会でした。
神父さんと尼さんに事情を話ししばらくのあいだ教会に寝泊まりさせてくれることとなります。
教会ではジャン・ヴァルジャンは何もしていないというのに
なぜか大事にもてなされ夜となれば優雅な食事をも与えられることになります。
しかし、神父さんたちがいつもこのような贅沢な食事をしているかと思いきや
覗いてみると全くそんなことはありません。
毎日質素な生活をして他人には大きなおもてなしをしていることをジャン・ヴァルジャンはすぐに知ります。
神父さんのような自分のことを後回しに他人を優先した奉仕の精神で生きている人間の存在をこのときジャン・ヴァルジャンは知ることになるのです。
やがてジャン・ヴァルジャンはそんな奉仕されているだけで何もできない自分に罪悪感を抱き教会を出て行くことを決意します。
けれども教会を出たかといって仕事や明日を生きるお金がない。
また元のように路頭に迷うことになることは明らかでした。
そこで教会に飾ってある神父さんが大事にしている高価な銀の食器を盗むことを考えます。
これを町で売れば少しは生活の足しになるだろうと。
それしか彼には生きる術がありませんでした。
神父さんの言葉(言霊)
その後、その考えを実行に移すことになります。
しかし、すぐに尼さんたちがジャン・ヴァルジャンを追いかけ彼は捕まり
憲兵によって警察に連れて行かれそうになりますが、
そこへ神父さんが駆け込んできました。
周りの人たちは食器の持ち主である神父さんに確認してもらういい機会だと、神父さんに尋ねます。
「この銀の食器は神父さんのものですよね?」
しかし、神父さんは予想に反してジャン・ヴァルジャンに向かって言いました。
「これはあなたに差し上げたものではないですか」と。
持ち主だった神父さんが「差し上げたものだ」と言う以上は憲兵たちも捕まえることができません。
彼らは不機嫌に「だったら最初からそう言ってくださいよ」と言い残しその場を去っていきます。
呆然とするジャン・ヴァルジャンは神父さんが嘘を言って自分のことを助けたことをすぐに理解したので
「なぜ、私のことを助けたのですか」
「なぜこれは自分のものだと正直に言わなかったのですか」
と、問いただします。
彼は今まで他人に助けられた経験がほとんどなかったので、
思わずその場で泣いてしまいました。
しかし、神父さんは天を見上げ
「天にまします父上様よ、アーメン」と手で十字を切ると
泣きじゃくるジャン・ヴァルジャン向かってこんなことをいいます。
(その言葉が本当に素晴らしいです)
「わたしは100人の善人の笑顔よりも、たった1人の罪びとの涙の方がよっぽどうれしいのです」。
そのとき神父さんも泣いていました。それも優しい眼差しで…。
元犯罪人であっても「なぜ私を助けたのか」と、
問いただだそうとするジャン・ヴァルジャンが良心の片鱗を見せてくれたことに神父さんは本当にうれしかったのでしょう。
以上、記憶が定かでないため多少アレンジした箇所もあります。
真の奉仕とは
失礼を承知で言いますと、
「他人に奉仕する人、尽くす人というのは心の根底にどうしても自己肯定感の低さや自己罪悪感がありそれらを埋め合わせるための行為」
である場合が少なからずあると思います。
何かにつけてプレゼントをする人。おごってばかりいる人。
根はいい人間なのでしょうが、その行為がいき過ぎると
「この人はマイナスの感情がありそれを埋め合わせるために無理して奉仕しているのでは?」
と思うときがあります。私も自己肯定感が低いのでそう感じてしまうのです。
しかし前記の「わたしは100人の善人の笑顔よりも…」という前提が
神父さんの人間への深い洞察力が読み取れ奉仕の精神が単なる自己満足ではなく
人類愛を超越したものと考えられるのではないでしょうか。
ですからその前提がなければ、当時そこまで私は感動していなかったと思います。
ちなみにこの話を友人などに物語風に話しますとけっこう感動してくれましたし
私自身も話すことが嬉しかったと思います。
著名なゲスト俳優の登用や予算をかけた映画興行と違い
このフランスのテレビ放送バージョンは限られた予算のなかでセリフ(言葉)という
予算とは全く関係ないところで違いを生むことで
感動を与えられるような言霊が生まれたのではないかと私は勝手ながら推測をしてしまいます。
戦場で亡くなった兵士の手紙には
また実際のあった話としてこんな内容のものもあります。
こちらも同じく落合さんの著作物に載っていたものです。
多くの兵士が犠牲となったノルマンディー上陸作戦。
その激しい戦場となった上陸作戦後に
死体で埋め尽くされ静まり返った沿岸で、亡くなったフランス人兵士の身元を確認しようと
軍服のポケットの中身を調べているとボロボロになった手紙が出てきた。
その手紙の内容にはこう書かれてあったそうです。
「私は今夜この戦場で死ぬ。あなたたちの未来のために」と。
この兵士も死にたいはずはない。
しかし、この日に日に激化する戦場では生きては帰れないだろう。
死の前は言葉がでないほど無念だったに違いない。
兵士はどうすがることも出来ない死の葛藤のなかで
自分の死が無駄にならない唯一の思い・望みが
「死をあなたたちの未来のために捧げる」ということだった。
いや、そう思わずには死を覚悟できなかったのだろうと思います。
人間、死を覚悟したときその思いは言霊として未来へ残るのでしょう。
それは主義主張を超越したものなのでしょう。
最後に
この亡くなった兵士の手紙も、神父さんの言葉もそうですが、
いっさいの飾りのない魂がこもった言葉はほんとうに忘れません。
まさに「これまで生きてきて感動した言葉を全て忘れた時に残っているものが言霊」と断言できます。